琴學書法栞 鳥海山樵癡仙 『訳注鳥海翁琴話』より

鳥海山樵癡仙、別号雪堂、通称鳥海翁は幕末における大阪、江戸の琴學発展に寄与した最も重要な琴人である。その琴流は明治大正昭和まで続いた。(鳥海翁についての詳細は、名著『鳥海翁琴話』岸辺成雄、坂本守正、稗田浩雄訳注 昭和六十年六月一日刊絶版、及び『江戸時代の琴士物語』岸辺成雄著を参照)
鳥海翁が江戸へ下ったのは嘉永二年(1849)四月、六十八歳の時である。はじめ日本橋魚河岸にいたが、一ヵ月ばかりで駒込千駄木与力町にある甲斐庄喜右衛門の下屋敷に移った。後に本郷御弓町に転居したが、千駄木は鳥海翁晩年江戸における琴學普及発展に最も活躍した時期である。終焉の地は湯島天神下にある松平采女正の屋敷であった。嘉永六年六月一日、遷化。享年七十二。
翁は古希壽筵のため上野不忍池の弁天妙音寺の貸座敷で書画展観を催した。翁が江戸へ来たのを知らず、翁のもとへ琴を学ぶ人が少ないために宣伝を兼ねたものであった。嘉永四年五月十三日に行った。当日は四方から多くの人々が参集しことの外盛会であったという。席上には江戸から、京都大阪その他から寄せられた書画を張りめぐらし席が暗くなるほどであった。江戸の高名な諸家の墨跡も多く、翁の人望は厚かった。贈られた詩歌を数編あげる。
岩倉前大納言集卿
手なれつつしらべみがける玉琴をあづまにひろく彈きひろむらん
洛陽町家宗匠家 長廣
ななつをに万代かへるほぎごとは君をためしにひくべかりけり
袴屋善兵衛歌豊
古希を賀して
こきみどりふることの音の松風や猶いく千代のしらべなるべし
橋本維孝
鳥海禪師の七秩(七十)を祝し奉る
識らず 人間 幽鬱の思ひを
琴の徽もて綱し去るも また禪機なり
心の欲する所に從へば 養ひ皆在り
七十にして師の如きは 稀の更に稀なり
泰翁村貞固
雪堂老師七十の賀詞
道ふならく 仙翁古希の年と
絃誦 心を寄す 天保篇に
流水の曲は 川の方に至らんとするが如く
高山の曲は 南山壽の騫らざるが如し
櫻居宗哲
曾て西攝に舞ひ 関東に到る
物外に廬を結び 遊び窮まらず
常に峨洋を弄して 歳月を忘れ
七旬 身は七絃中に在り
市川米庵
河と嶽は其の心
仙と佛は其の容
琴謦の韵
松柏の壽
かような風流韻事があった時代が懐かしく偲ばれる。
この時のお礼として、翁はこの「琴學書法栞」を揮毫上木して会に出席した人々に贈った。琴道と書道について述べた一枚の栞である。その大意は、翁の琴歴、中国人の日常的言語がわからずに琴曲の趣を理解できるはずがない、というそれへの反論として、琴曲は言語ではない、中国人でなくても琴趣は理解できる、と。また、琴は養生の第一の器である、欧陽修の幽憂(ノイローゼ)が琴を弾じることによって癒された、と例をあげ、読書家、書画家、古雅を好む人すべては琴を弾じ、邪念を拂うべきであるということを述べている。後半は書道について。
鳥海翁の願いは、琴・書両道を広く教授し、人の為、長くそれらを伝えることであった。
琴學・書法の栞
予嘗て崎陽に遊び光永精舎日藏上人より琴を學び、後勢洲津の蘿道先生に從學す。又、尾州名府泰翁先生より、勢洲に無き所の曲を傳ふ。元來東皐心越禪師の傳、漢土の風音、全く曲中に存す。崎陽の人曰く、唐人の對話、言語甚だ難し。琴曲それ焉んぞ其の趣を得ん、と。予曰く、此の説非也。東北人、浄瑠理を學び遂に浪華人に比す。然れども浄瑠理中の言語、生涯妙に到らず。今それ琴曲は言語にあらず。その義知るべし、と。又琴徳を述べんに、黄庭經に曰く、琴心三疉、胎仙を舞はす、と。又欧陽修の、楊[宀+眞](し)を送る序に曰く、予嘗て幽憂の疾有り。退いて間居すれども治する能はざる也。既にして琴を友人孫道滋に學び、宮聲數引を受く。久しくして之を樂しめば、疾の其の體に在るを知らざる也、と。是れ琴は養生第一の器也。又曰く、舜と文王と孔子の遺音、と。是れ讀書家、幽憂の疾有る人、必ず彈ずべき也。又書畫家、都て古雅を好む人、彈琴以て邪念を拂ふべし。或ひは曰く、書法口訣、取るに足らず。唯だ古法帖を習熟すれば、手中自ら法度具足す。是れ眞の書法也、と。予深く是れを信ず。然るに友人半年ばかり急に書の進むあり。予其の故を問ふ。答へて曰く、吾れ近頃書法を學び、追日の進むを覺ゆ、と。予試みに其の法を學び、初めて書法の妙有る事を知る。是れ雪機和尚の傳法也。予其の法皆傳し、又所々の書法家を尋ね、弘法大師十二點法を始め數流相傳、額、色紙、下馬下乘等の書式に至る迄、之を傳ふ。然るに、予今年古希に到る。何率存命中、右、琴書兩道を廣く教授し、人の爲にし、且つ長く世に傳へん事を思ふ。是に於てか其の段を誌し、四方の諸君に告ぐるもの也。
鳥海山樵 癡仙謹言
別號雪堂 印
因みに云ふ、畫家、書法を學び其の畫長ずる事、其の理必然也。探幽先生の證也。 千駄木団子坂与力町住居