琴學資料
 
支那の古琴  山川早水 著 『支那學』第二巻 第五號(大正十一年一月一日)より


 支那に於ては古から禮樂の二事を殊に貴んで、殆ど治國平天下の要具とまで見て居ることは支那典籍に明記する所である。若し支那國民に古聖賢の定めた禮樂の眞髄が常に行はれて來たならば、今日の如き國民性に降らなかったかも知れない。然るに早くも孔子の時代に於て禮樂の生命が薄らぎ、爾来幾千年の間を通り、遂に禮頽れ樂壞れ、支那特有の禮樂は書籍の上に僅に其殘影を留め、人事冠婚等の間に彷佛として其遺型を存する位になった。而も今日行はるる冠婚葬祭の儀禮の如きは全く一種の假禮で、禮の生彩は認むるに由らないばかりである。樂の衰へは更に甚しく、六經中の禮記の亡失は已に數千年の古に在り、其後一張一弛はあったが、押し詰めて今日となれば、禮の觀るに足らぬより尚一層甚しきものがある。
 然れども俚樂甚だ盛んである。彼の芝居で奏するハヤシの如きは、上下通じて餓人の食に於けるに似たるものがあるが、私にはこれに所謂禮樂の樂の響きがあらうとは思はれない。同じく劇樂中にも崑曲は稍や優雅に近い點もあるやうだが、禮樂の樂を距ることは尚千萬里の感じがする。要するに禮と曰ひ樂と曰ひ、唯今は頽壞の極であるといふても誣言ではあるまい。此間に於て唯一つ人意を強うするに足る古樂の存してゐるものがある。即ち古琴である。古琴の命脈も今日は細々たるものである。支那全國を通じて名家といはるる程の琴彈きが十人あるやなしや疑はしいが、上古より其傳統の消滅せなかったのは誠にうれしいことである。日本でも三味線は津々浦々に行き渡って居るが、笙とか篳篥は一部の間に止って居ると同じく、支那でも古琴は一省に一人あるなしである。廣い支那にかうであるから、以て古琴の振はぬことが分る。其故を考ふるに其音の餘りに高雅に、餘りに優雅で俚耳に入り難いからであらう。併し一面から觀ればそこに琴の威嚴と生命がある。
 琴の歴史は書籍に詳であるからくだくだしくは言はぬが、其二三の點を述ぶれば、其起原は支那建國の昔に發し、歴世殆ど其形式を毀たずに傳つて來た。但し舜には五絃の琴があり、漢の蔡ユウは九絃琴を創めたことはあったが、定則は七絃として傳へられた。蔡ユウは九絃琴を作つたものの調子がおかしかつたものか七絃に復して、九絃は遂に行はれずに終つた。
 琴材には泥(土)石鐵銅桐等があるが、桐が本當で、外の材料は好事家の試に用ゐたものである。長さ三尺六七寸、幅は七八寸、背面に龍池鳳沼の二孔を開き、全體を漆塗し、表面の外縁に近い處に白玉または青貝の十三徽(星點)を列嵌する。絃はすべて七絃である。
 七絃は外方より數へて五音とする。外方より第一絃を倍徴、第二絃を倍羽、第三絃より第七絃へ順次に宮商角徴羽と數へる。第六絃を文王の加へた文絃、第七絃を武王の加へた武絃と名け、又之に少宮商の名を付し、第一絃より第五絃までを宮商角徴羽といふのは俗説である。(賈峻山琴師の説)
 琴面に一個の柱をも立てないから、調子は右端背面のネヂを以て調へる。調子は六律六呂の正變である。七絃、十三徽、十二律の正變により其音は千變萬化するのである。音譜の上尺工六五◎凡の七字を用ゐる。彈法は左手拇指の側肉を以て絃を擦り、中指を以て絃を輕く打つ、其位置は十三徽間に一定してゐる。右手を彈ずることは箏を彈ずる法と同じである、假甲(ツメ)をはめないのが原則である。
 琴の音は清亮豪宕粗々細々兼ね備はらぬところはない。今は音樂律に照せば如何あるべきか知らぬが、私の耳には妙と感ずるの外はなく、私の最後の形容は妙の一字を知るのみである。かかる妙音を發する樂器の恙なく支那に存して居るのは支那國民に取り非常なる幸福である。琴は邪心を禁ずるの意であるから、音そのものに毛頭鄭褻の色がなく、曲にも淫心を挑發するとか、或はそれに近い感情を催さしむるものは一つもない。けれども之を聞けば無量の情操を養ひ、無量の感慨を惹くものがある。或は神女の私語するが如きあり、或は千山萬岳一時に裂くるが如きあり、或は飄風蕩々萬里の大漠を吹くが如きもある、要は妙の一字に入る。
 現今傳ふる曲は大操小操合せて一千もあらうが、其中著名なのは二百餘曲ある。是等の曲は漢唐の遺音といふものであり、元明近世の作もあるが、此考證は又別個の科目として、私は只管に其高雅なる音色を喜ぶのである。曲目の主なるものを掲げて見れば、
 洞天春曉  高山流水  圯橋三進履
 鴎鷺忘機  墨子悲絲  靜觀吟
 蒼梧怨   箕山秋月  關雎
 漁歌    塞上鴻   醉漁唱晩
 漢宮秋月  蒼江夜雨  烏夜啼
 羽化登仙  平沙落雁  瀟湘水雲
 孔子讀易  胡笳十八拍 梅花三弄
 四季    春山聽杜鵑 梧桐舞秋風
 梧桐夜雨  秋塞    歸去來辭
 陽關三疊  龜山操
 右の中「靜觀吟」「高山流水」の如きは秘曲ともいふべきものである。「梅花三弄」は梅花三段の意で、極めて清楚な曲である。「高山流水」は伯牙の遺音と傳へられ、間拍子の處に言ふ可らざる味がある。
 私は北京で三人の琴師に接した。一人は河南人で李晴坡、一人は北京大學樂師王心葵、一人は賈峻山である。李氏は郷に歸り、王氏とは交りを續けず、専ら賈氏と親んで居る。賈氏は北京で廣凌琴社といふを設け、琴學を教授して居る。琴學を通縣の道士に受けた人で、北支那有名の琴家である。賈氏は又善く瑟を鼓す人であるが、私は未だ聞く機會を得ない。瑟は長さ六尺餘、幅一尺餘、二十五絃の大器である。
 私は琴音を聞き、古代支那民族の極めて高尚なる風格を備へて居たことを想像する。非常なる優等民族でなければ、琴の如き高尚なる樂器を發明し能はぬと思ふ。其高尚なる國民的風格は今日大部分の支那人には認められないが、其血管中には尚其流れが濳んでは居るまいか。私は其流れに迫って支那國民の隱れたる美處を窺つて見度い。
 日本の雅樂に支那古琴の入って居るか否やは私は知らないが、若し日本に支那琴の傳へがなければ、是非これだけは日本人に傳へ置いてもらいたいと思ふ。



山川早水には、東京成文館刊『巴蜀 』(1909年)の著作がある。


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